えぬのざっかん

アラサーレズビアンの雑感/週末に更新する日記みたいなもの

ひゃくよんじゅうにこめ

 ここ最近、フォロワーさんの雑談やラジオに参加して、内面的なものを話題にすることが多かったので、このブログでもまた記事にしてみようと思った。

 

 この歳になってようやく、自分の恋愛に対する考え方や指向をなんとなく理解できてきたように思う。

 数年前、好きな人に告白して、付き合いたいというのなら友達ではいられないよと言われたときに、別に付き合いたいわけじゃないんだよなと思って、結果的にまだ友達ではいるものの、なんでめちゃくちゃ好きなのに付き合いたいと思わないんだろう、とずっと疑問でいた。

 少し前、Twitterでなんとなくみんながやってるからやってみるか、と思ってやってみたセクシュアリティ診断が、そのモヤモヤに一旦は結論をつけてくれた。一般的な人とは恋愛への指向が違うのだと文面で見てやっと納得がいって、それでも付き合いたいと思わないという点については結論に至らなかった。

 

 何日か前、仲間内で雑談をしていて、化粧は自分のためにやるもんだという話になった。それは確かにそうだなと思ったあと不意に、自分の自己肯定感の低さと、好きになった人と付き合いたいと思わない、ということがリンクしてしまった。

 自己肯定感が低いから、こんな自分を相手してもらうのは申し訳ないという気持ちが先に来る。特に、見た目や体型にコンプレックスがあって、それを意識せず理由にしているところがあるように思う。それこそ、恋人が欲しいなと思っていた頃には、付き合ったらその先に性行為があるものだと思っていたし、そうすると自分の裸を晒すことになって、それはすごく申し訳ないことだから、好きな人とする行為に関しては憧れで終わるんだろうなと諦めていたはずだった。

 数年前、好きな作家さんが官能小説を書くというので、嬉々として買って読んだことがあった。『ここから先はどうするの 禁断のエロス』というアンソロジーに、澤村伊智先生が寄稿していた作品がそれで、まさかの百合で嬉しかったのと共に、この主人公は私だなと思うところがあった。

 自分の体にコンプレックスがあって、夫との行為を楽しめないのだという。

 この話を読んで、めちゃくちゃ分かるなと思うのと同時に、私には全部をさらけ出せる人を見つけることは無理なのではという諦念が湧いた。諦念は未だにずっと腹の底にわだかまっていて、それをどうにかするにはまず見た目からどうにかするべきなんだろうなとはずっと思っている。

 

 卵が先か、鶏が先かみたいな話にはなるけれど、未だに私には人を好きになるときに自分の方を見て欲しいという気持ちが湧くことはなく、じゃあ別に体晒さないんならいいじゃないかと、あちこちたるんだ体をほったらかしたまま生活している。

 いい加減服がキツくなってきたなと現実的な理屈でもって、いい加減痩せないとな、とは思うけれど、それもモチベーションを維持するには強制力が低く、どうしたもんかなと惰性とちょっとした希望を胸に、ストレッチと軽い筋トレを毎日続けている。

 そうそう結果が出るものでもないので、まあそのうち、なんとかなればいいか。