えぬのざっかん

アラサーレズビアンの雑感/週末に更新する日記みたいなもの

ひゃくじゅうさんこめ

 朝八時過ぎ、駐輪場に自転車を駐めて駅まで歩く少しの時間ですら、日傘をさすようになった。じりじりと照りつける太陽に、確実に日焼けを実感している。面倒くさがって腕に日焼け止めを塗っていないのけだれど、それではそのうちに顔と腕の色差がすごいことになる。

 あるだろうと思っていたアームカバーが見つからなかったので、しばらくは面倒くさいのを我慢して大人しく日焼け止めを腕にも塗ることにした。

 

 七月下旬、夏である。

 普段真っ昼間に外に出ないからそんなに直射日光のきつさを実感することはないのだけれど、この休みに姪甥の水遊びを眺めたり、それに付き合ったりしてひしひしと噛み締めるはめになった。

 私の母が買ったプールを庭に出して、サメのモチーフが入った水着を着た子ども二人が屈託なく遊んでいる様は、どうしても夏を実感させた。

 もうじき八月になろうというのに実感は薄く、一応夏なのは分かってるんだけど、みたいな認識だったのが、あっという間に塗り替えられた。大人は椅子に座って子どもたちが遊ぶのを眺めながら、酒を飲んでいた。私は飲めないのでカルピスを片手に子どもが遊ぶのを眺めていた。

 子どもがたまに危ないところに駆けていくようなら追いかけて制止する。親はこれが毎日なのかと思うと本当に頭が上がらないし、余計に尊敬の念が強まっていく。

 

 結婚だの子どもだの、そう言った類いの話が身内の口からほぼ出なくなったのは、歳を取ることのメリットの一つかも知れない。私が散々それはないと、高校生の頃から言い続けてきたのがようやく刷り込まれたのかも知れないが。

 パートナーを持つことも難しいだろう私にとって、同性同士であれ結婚という文字はほど遠いものであって、ましてや夢見るなんてありえないことだ。

 わりと最近になってようやく自分のあり方を認識したからか、そのあたりの気持ちがずいぶんと希薄になってしまった。隣にいる人を求めることもできない分、他の人の嬉しそうな顔を昔に比べて素直に喜べなくなったなと思う。

 

 他人の幸せが自分の幸せだと割と本気で思っていたけれど、それにも限界があるなあと最近思い始めている。

 長期的に見たときの自分の幸せを、いい加減まともに追及しないといけないのかも知れない。